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篠原 榮太(しのはら えいた)
1927年東京に生まれる。TBSテレビ開局と同時にタイトルデザイナーとして勤務。TBSビジョン顧問にて退職。 「渡る世間は鬼ばかり」「3年B組金八先生」「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」「輝く! 日本レコード大賞」他、多数のタイトルデザインを残す。
民放テレビタイトルデザイン優秀賞、民放フェスティバル・アニメーション作品金賞受賞。1999年には放送文化に貢献した番組や人に贈られる第7回橋田賞(橋田壽賀子)を受賞。

 

1968年~1992年 新橋演舞場・明治座等のパンフレット、ポスター、題字デザインを担当。
1973年~1981年 東京都の月刊広報誌「とうきょう広報」のロゴと表紙画を担当。
慶事用切手「寿」デザイン、成田国際空港デジタルサイネージ『春夏秋冬』のタイプデザイン、シャトーメルシャン勝沼・ワイン資料館の壁画『葡萄酒醸造之景』など多数を制作。

 

1964年、大谷四郎と共に、日本レタリングデザイナー協会を設立(現 日本タイポグラフィ協会)。 NAAC展にて、日本タイポグラフィ協会賞、年鑑ベストワーク賞 他、多数受賞。 日本タイポグラフィ協会理事、理事長、会長を歴任。第10回佐藤敬之輔賞受賞。

 

多摩美術大学・専門学校東京デザイナー学院・東京デザインスクール講師。 文部省認定レタリング技能検定中央委員長など、若者の教育に携わる。 中学用美術教科書に鉛筆画、高校用美術教科書にロゴデザインが掲載される。 2004年、文部科学省より社会教育功労者表彰を受ける。

 

 

 

篠原榮太作品集ウェブサイトを開設するにあたり、お声をいただきました。
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<ウェブサイトへのお問い合わせ>

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otoiawase@shinohara-eita.com

  • <篠原榮太先生へ>  パッケージデザイナー 三石 博

     

     篠原先生は僕の恩師である。

     不出来であった僕に始めて「優」をくださったのは先生である。

     美大生は誰でも、自分には多少なりとも才能が在ると思っている。もちろんそのほとんどは勘違いで、無論、僕もその直中にいた。

     それでも評価が全く得られない状況に、「何かがおかしい」と評価への疑念と自らの能力への不安に駆られる。

     そんな時「お前さんにも良いところはあるよ」と先生が優をくださった。たったひとつの優ではあったが、僕には忘れられぬ、救いの勲章のような優であった。しかしその優によって、そら見た事かと勘違いはより頑強な勘違いへと熟成され、今日までなんとか仕事が出来ている遠因でもある。

     そういえば「先生、なぜTBSビジョンの常務にまでなれたの」と失礼な質問をしたとき、「俺は人を使うのがうまいんだよ」と言っておられたが、僕の勘違いパワーを全開させるために優をくださったのかもしれない。

     先生は多摩美で「文字デザイン」のゼミを持つ講師であったが、周りはいつもファンのような学生達に囲まれていた。やはり先生がデザインの現場で第一線を駆け続ける人であったからだろう。先生がゼミで蒔いた種は大きく成長し、同級生にはタイプデザインの第一人者、鳥海修がいる。

     文字については僕は門外漢であるが、先生のカリグラフィーは時には流麗で、時には激流のように力強く、風のスピード感で語りかけてくる。

     先生の仕事は文字が中核ではあるが、先日ご自宅にご訪問した際、玄関脇の窪みに、さほど大きくない横長の額に入れられた、墨一色の絵を見つけた。目を凝らしてよく見れば、小さな画面に、ワインづくりの光景が、全くのごまかしもなく、緻密に、確実な線で刻み込まれているのだ。

     「三石くんもイラスト書く?」と振り向く先生に、塩でもかけられたナメクジのように、消え入ってしまいたい思いであった。

     帰り際、最近出版された「描き文字のデザイン」にねだってサインをいただいた。

    「三石殿 篠原栄太」。

     いま、その宝物を眺めながら僕は思う。風を切るスピード感と確実なデッサン力が先生の造形の背景にはあって、そして、それは比類なき緻密な忍耐の上に成り立っているのではないか、と。

     しかし、そんな生意気な考察はさておき、「お前さんにも良いところはあるよ」と青い尻をたたいてくださった先生、本当にありがとうございました。もう少し先まで行ってみます。またご報告しますので、良かったら「優」ください。

     

     

    三石博

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    1954年長野県生まれ。多摩美術大学大学院美術研究科終了。パッケージデザイナーとして、『神の河』(薩摩酒造)や『ヌーベル月桂冠』シリーズ(月桂冠)など、企業の基幹商品を手掛け、酒のオリジナルボトルからのデザイン開発は20点を超える。また、ボトルデザインとの関わりから、ガラス素材に魅かれ、1994年より美津石紘詩の作家名でガラス造形家として活動。現在、design studio SGW 主宰。著書に『ボトルは語る』(六耀社)『十人のパッケージデザイナー』(六耀社・共著)がある。

  • <篠原先生のこと>  有限会社字游工房代表取締役 書体設計士 鳥海修

     

     改めて先生の業績を振り返るとその活動の広さに驚嘆する。テレビタイトルを描き、大学や専門学校で教鞭をとり、タイポグラフィ協会を設立し、また会長に就任し、本を作り、フォントも作り、イラストも描き、学生を自宅に招き入れては珍しい文字や筆記用具を見せて下さり、その場で文字を書き、なおかつ明るい奥さまのめぐみさんにはたいへんご馳走になったり、そのお返しというわけではないけれど温泉友の会の会長にも就任していただき、先生の所有する別荘に大勢で押しかけ、近郊の温泉に幾度となく出かけた。いやはやずいぶんとお世話になっているし、ずいぶん迷惑もかけている。

     

     先生は、TBSの「風雲!たけし城」「3年B組金八先生」「渡る世間は鬼ばかり」「東芝日曜劇場」といった同局の看板番組のタイトルをはじめ演劇のタイトルなど、実に多くの作品を書いている。さらに「篠」や「まるたくん」などのフォントを作り、カリグラフィをモチーフにした実験的な作品を作るなど、文字だけをとってもその多様さに驚く。とくに筆文字は師匠を持たない自己流と称していたが、強い打ち込みから始まる細身の楷行書は、フトコロが絞まり、芯がとおってなんとも品が良く、先生の真骨頂といえる。何かのとき、東芝日曜劇場のプロジューサーである石井ふく子さんが「今度のタイトルは篠原さんじゃなきゃダメって言ってるんだよ」と苦笑いをしていたが、さもありなんと今にして思う。

     

     私はグラフィックデザインにあまり興味のない学生だった。それでもグラフィックデザイン科に席をおいたのは、両親に2浪もさせてもらったにも関わらずそこにしか受け入れてもらえなかったからだ。1,2年は基礎的な勉強だったのでどうにかついて行けたが、3年になるとイラストや広告などの専門教科が増えてきていよいよ行き詰まった。ところがそこに「文字デザイン」という選択科目があり、特に文字やレタリングが好きなわけではなかったが、敷居が低く比較的楽に単位が取れそうだと思って受講した。不遜である。その科目は人気で40名くらいの受講生がいた。講師は篠原榮太先生で、柔和なジーン・ハックマンを彷彿とさせた。

     授業ではカリグラフィやロゴマーク、レタリングを教えつつ、文字を生業にしてる方の仕事場に学生を連れていってくださった。橘流寄席文字の家元の橘右近さん、タイプデザインの三宅康文さん、毎日新聞社が記憶に残っている。中でも私の進路を決定づけたのが毎日新聞社の見学だった。能天気に遠足に出かけるくらいの気楽な気持ちでついて行っただけなのだが、社内の一室で見たレタリングの質の高さに驚いた。私たち学生のレタリングとはまるで次元が違って見えた。とっさに「それは何をするものですか?」と口を衝いて出た。その人はちょっと不思議そうな顔をして「活字の元だよ」と答えたのだが、私は混乱して即座にその意味を理解することができない。今のようにフォントがなかった時代、活字といえば写植文字か鉛でできた金属活字だったし、活字自体が印刷を前提とした専門領域にあって、一般の人たちには馴染みが薄かった時代である。いつも目にしている印刷された文字が人の手によって作られていることに思いが及ばなかったのは、当時の人たちの一般的な感覚ではなかったか。少し間をおいてそのレタリングが金属活字の元になる文字ということを理解したとき、私は大きなカルチャーショックを受けた。

     いつも読んでいる単行本や文庫本の文字、はたまた新聞の文字は、太古の昔からあったものとなんとなくそう思っていた。だからその活字の一字一字がまさか人に手によって作られていたなどとは思いも寄らなかった。その活字によって私たちは物語の世界に誘われ、思想を学び、情報を把握する。考えてみれば自分たちは今までにどれだけ活字の恩恵を受けてきたことか、いわば活字は文化の礎とも言えるのではないか。私は人が作っているのに人が作ったように思わせないデザインは、グラフィックデザインとは対極にあるような気がして一瞬にして虜になった。さらに毎日新聞社内の案内をしてくださった小塚昌彦さんが学生を前にして「日本人にとって文字は水であり、米である」という言葉が私の進路を決定づけた。デザインの才覚があるとは思えない私がタイプデザインという仕事を知り、その道に進むことができたのはまぎれもなく篠原先生の文字に対する幅広い見識に裏打ちされた授業のおかげだと心から感謝するのです。

     それから40年以上が経った。私は活字ばかりを作りつづけてすでに100書体以上の書体作りに携わった。ありがたいことに作った書体の一部はMacやWindowsにも搭載され、多くの人の役にたっていると思いたい。一方で大学で教鞭をとり、また文字塾という私塾も立ち上げ、すでに7年目になろうとしている。活字デザインに関して知っていることは何でも伝えたい、それを次の世代に繋げたい、そんな思いでバタバタと活動しているのは、幅広い活動をしていた篠原先生を見ていたからではなかったかと今にして思う。ヨコカクさんや大日本タイポ組合などは、先生の薫陶を受けて文字の世界で活躍している代表格である。

     

     昨年、先生と電話で話したことがあった。

    「鳥海くん、がんばってるかー。三石くんはガラス作家としてすごくがんばってるぞー。君も負けないようにがんばれー」

    「はい、なんとかがんばってます」

    「…………」

    「……あの…、がんばってますよー」

    「…………」

    「あの……」

    「…最近、耳がよく聞こえないんだよ…。ちょっとウチのに代わるね。じゃ、げんきでねー」

     と、奥さまのめぐみさんに代わると、

    「榮太は最近耳が遠いの。それじゃげんきでねー」

     と、明るい声で電話を切ってしまったので取付く島がなく、私がすごーくがんばっていることを伝えることはできませんでした。

     

     改めまして、先生、めぐみさん、私は日本の活字の発展のためにがんばってますよー。三石くんには負けるけど。

     

     

    鳥海修

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    1955年山形県生まれ。多摩美術大学GD科卒業。1979年株式会社写研入社。1989年に有限会社字游工房(http://www.jiyu-kobo.co.jp/)を鈴木勉、片田啓一の3名で設立。現在、同社代表取締役であり書体設計士。ヒラギノシリーズ、こぶりなゴシックなどを委託制作。自社ブランドとして游書体ライブラリーの游明朝体、游ゴシック体など、ベーシック書体を中心に100書体以上の書体開発に携わる。著書に『文字を作る仕事』(晶文社刊、日本エッセイスト・クラブ賞受賞)がある。